越境するライトノベルに思う思い

ライトノベルという歴史の浅い存在がたった数年でこれまでに大きな市場になりえることが予測し得ただろうか?
私自身はライトノベルという存在を認知し、読み出したのは去年、いや一昨年のことだろうか。
それまで国語の教科書くらいしか読んでいなくて、小学校低学年以来殆ど本を読んでいなかったのだが、挿絵つき、「ライト」という謳い文句で買ってみたのだ。
もちろん、純文学とよばれるような重厚な物語、圧倒的読み応えというわけではなく、読感もライトで読みやすく、余計なことを考えずに読め、普段本に対して億劫だった自分でも簡単に読めたものだった。
それ以後、ちょくちょくライトノベルをかじるようになったが、自分的にもそれが転機だったのか、半年後くらいにはハードカバーの、ライトノベルに対してハードノベルとでもいうべきだろうか、所謂小説も読んでみた。
そこには数ヶ月前の億劫な自分はいなくて、逆に読むことに貪欲になっている自分がいた。
ライトノベルを下地にした読書力とでもいうべきか、その力でスムーズに読めることが出来、以来、定期的に小説も読んでいるのだ。
私にとってライトノベルという存在は私自身をライトノベルから小説という国境へと越境させてくれた存在で、一段と思い入れのあるものなのだ。
もちろん今でもライトノベル国、小説国、二つの国をまたいで生活している。


いま、ライトノベルという存在は小説に影響を与えるまで肥大化している。
むしろ、近年はライトノベル抜きで小説界を語れないという人間もいるのではないか。
ライトノベルというからって何も作品すべてがノーテンキに読んでいれば解決するものではないし、その一部分には文学的なものもある。
そして「越境するライトノベル」で語られているのはそのライトノベルというくくりから小説寄りの存在が越境を始めていると見るべきなのではないか。
ライトノベルを飛び出して、ハヤカワレーベルでSFを書いている小川一水桜坂洋桜庭一樹などの人材はまさしくそれでライトノベルの越境であり人材の越境であると思う。
そして「越境する」でも語られているハードカバー化は、子供向けとみなされていたライトノベルが社会にその存在を認めてもらった証拠でもあると思う。
ハードカバー需要があるのかどうか、そこのところは未知数だが、その存在は確実に歴史に名を刻む一歩になるのだろう。
今後、ライトノベルライトノベル畑の出身者、ライトノベル回帰などのムーブメントが起こるのか、見ものでもある。